2012年5月14日月曜日

米国の昏睡している羊たちを目覚めさせるための20の現象 - たわごとブログ - Yahoo!ブログ


下記サイトを翻訳しました。若干ですが省略し、読みやすいように多少は修正してあります。

 

 

彼らのエンターテイメントによって誘発された昏睡から、羊たちを目覚めさせるための20の経済統計ダウは、2008年金融危機以来では初めて13,000を上回って閉まりました。

 

そして、現在での主流メディアは強い景気回復が進行中である!と断言しています。そしてマスコミでは、オバマ大統領の掲げた経済政策が巨大な成功を治めていると米国民の誰でも聞いている。

 

しかし、実際の米国の消費者たちは、其の情報に簡単に踊らされてしまい、相変わらず仰天する金額の新たな負債額を積み上げています。

 

残念なことに、新しい負債によって得られる経済的幸福感は一時的であり極めて短命だということに気付かねばなりません

 

現時点まの米国経済を破壊している長期的大問題のどれも、全く解決解されませんでした。実際、其れを実証することができる何十もの統計があります。

 

そして、この不況が終わったと思ったとき、いかに其れが遥かに悪い形であったことを米国経済が証明するでしょう。

今すぐ劇的な変化が速く行われなければ、我が国の経済が暴走して塀に直接当たって木っ端微塵になっていきます

 

 悲しいことに、大部分のアメリカ人は彼ら支配層が行っていることが何が全くわからないようで、相変わらず娯楽エンターテイメントに没頭しています。

 

彼らの大半が、様々なエンターテイメントによって誘発された昏睡状態を楽しみ続けており、どのように我々が直面している問題を解決するべきかについて、「専門家が正確にわかっているだろう」と思うだけで、其れで満足している飼いならされた羊なのです。


結局、其の無関心が負債比率と失墜した通貨政策について考えることより、現実辛目を背けて楽観的に思考した方が非常に簡単です。しかし、其れは、我々が沈黙した羊たちを目覚めさせようとしてはならないことではありません。

 

其れは決して簡単なことではないのです。あなたが明日、病院に行くとします。そして、医者が病状を説明したり話すことなく、少しの青い錠剤を飲むようにとだけ言うことが判っているならば、他の人を病院に連れて行っても良くなると思いますか?

 

2012年5月11日金曜日

子供の病気について医師に相談アスクドクターズ | 窒息の時の症状について


2か月半の赤ちゃんを抱いたままソファーで寝てしまいました。

起きると赤ちゃんの顔が、私のお腹にかなり近い所にあり息ができていたか心配になりました。

特に目立った症状はなく、ぐっすり寝てました。その後、授乳もかわりなくしました。

もし脳にダメージがあったらと心配です。ダメージがあった場合、すぐになんらかの症状がでますか?

(30代/女性)

何度もわかりやすい回答をしていただき、ありがとうございました。

相変わらず、頭皮や顔がカサカサしてます。あまりひどければ、再度病院に行くつもりです。

わかりやすいお返事ありがとうございました。

あれから、ミルクも普段通り飲んでいるので安心しました。

2012年5月10日木曜日

みや骨盤整体 (立川の整体院です)


よく整体などで、短パンに半そでの着替えをして

施術を受ける所もあるようですが、みや骨盤整体では、

お貸する着替えも長そでのシャツと長さのあるズボンです。

 ご自身で用意する着替えも、長さのあるスウェットの

ようなものでかまいません。

 骨盤整体の際、地肌に触れる部分といえば、

2012年5月8日火曜日

6kgの減量に成功したGLAYのTERU、アンチエイジング宣言:おんそく!


1:禿の月φ ★:2012/05/01(火) 14:39:43.91 ID:???0

 

人気ロックグループGLAY(グレイ)のボーカリスト・TERU(40)が2012年4月30日、
「アンチエイジング宣言」を自身のブログで呼びかけた。

 去年の武道館LIVEを終えてから、朝食は「とろろ豆腐にわかめを載せ、そばつゆで食べる」
シンプルなものにしており、現在の体重は58kg、去年から6kgの減量に成功と報告。
これをキープして50代に突入したいと目標を語ると同時に、ファンに向かって

「皆で一緒に、年を重ねて行くって事で、『アンチエイジング宣言!』アンチエイジング宣言!」
「みんなで一緒に綺麗になろうではないか~~~~!!!」と提案した。
ソース:J-CASTニュース

TERU(GLAY)オフィシャルブログ

2:名無しさん@恐縮です:2012/05/01(火) 14:40:28.22 ID:5xAthRf00

えらい太ってたよな

3:名無しさん@恐縮です:2012/05/01(火) 14:41:12.35 ID:bbMR+e2d0

CMでもパンパンの顔だったけど…

8:名無しさん@恐縮です:2012/05/01(火) 14:43:12.89 ID:GAp/TZWj0

>現在の体重は58kg、去年から6kgの減量に成功

この辺がグレーなんですよ

9:名無しさん@恐縮です:2012/05/01(火) 14:43:29.01 ID:yNNOsOTi0

減量も良いけど、もっとましな音楽作ったら。GLAYとか田舎のヤンキー中学生が聴く音楽じゃないの。

340:名無しさん@恐縮です:2012/05/01(火) 19:23:53.48 ID:oN3e0pu1O

>>9
GLAYが目指すのはキャンプファイアーでみんなで歌えるような曲

692:名無しさん@恐縮です:2012/05/02(水) 07:09:33.13 ID:PJ92EYXxO

>>9
なんかキャンプファイヤで囲んで歌えるような歌目指してるんだとか

706:名無しさん@恐縮です:2012/05/02(水) 08:21:42.34 ID:qwosFaoG0

>>9
キャンプファイヤーで歌える歌がどうとか

732:名無しさん@恐縮です:2012/05/02(水) 11:48:49.54 ID:Q44uUchp0

>>9
キャンプファイy

794:名無しさん@恐縮です:2012/05/02(水) 19:01:17.34 ID:J4Na68970
10:名無しさん@恐縮です:2012/05/01(火) 14:43:45.72 ID:Fo+stEIx0

6キロってことは前は64キロだったってこと?
64キロじゃ太ったには入らないだろ。でもぽちゃっとしてたよなぁ。
太ったってよりは老けた肌が弛んだな。

2012年5月6日日曜日

ジョージ・ワシントン - Wikipedia


ジョージ・ワシントン



初代 アメリカ合衆国大統領
任期
1789年4月30日 – 1797年3月4日
副大統領 ジョン・アダムズ
前任者 新設
後任者 ジョン・アダムズ

初代大陸軍司令官
任期
1775年6月15日 – 1783年12月23日
後任者 ヘンリー・ノックス
任期
1798年7月13日 – 1799年12月14日
大統領 ジョン・アダムズ
前任者 ジェームズ・ウィルキンソン
後任者 アレクサンダー・ハミルトン

出生 1732年2月22日
バージニア植民地
ウェストモーランド郡
死亡 1799年12月14日(67歳)
バージニア州マウントバーノン
埋葬地 家族墓地
マウントバーノン
国籍 アメリカ合衆国
英国臣民(1776年以前)
政党 無し
配偶者 マーサ・ワシントン
子女 無し
職業 農民(黒人奴隷農園主)
兵士(将官)
信仰 英国国教会 / 米国聖公会
署名
兵役経験
所属組織  グレートブリテン王国
 アメリカ
部門 バージニア民兵
大陸軍
アメリカ陸軍
軍歴 民兵:1752–1758
大陸軍:1775–1783
アメリカ陸軍:1798–1799
最終階級 中将
陸軍大元帥(死後の1976年に昇進)
指揮 バージニア連隊
大陸軍
アメリカ陸軍
戦闘 フレンチ・インディアン戦争
  • ジュモンビル・グレンの戦い
  • フォート・ネセシティの戦い
  • モノンガヘラの戦い
  • フォート・デュケーヌの戦い

アメリカ独立戦争

  • ボストン方面作戦
  • ニューヨーク方面作戦
  • ニュージャージー方面作戦
  • フィラデルフィア方面作戦
  • ヨークタウン方面作戦
賞罰 議会名誉黄金勲章, Thanks of Congress

ジョージ・ワシントン英語: George Washington、グレゴリオ暦:1732年2月22日 - 1799年12月14日(ユリウス暦:1731年2月11日生まれ))は、アメリカ合衆国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主であり、同国の初代大統領である。 死去した現在もアメリカ合衆国陸軍大元帥の階級にいる。

目次

  • 1 生い立ち
  • 2 フレンチ・インディアン戦争
  • 3 2つの戦争の間
  • 4 アメリカ独立戦争
  • 5 戦後の活動
  • 6 大統領職
    • 6.1 内政
    • 6.2 大統領顧問団
    • 6.3 指名した最高裁判所判事
    • 6.4 外交
    • 6.5 辞任挨拶
    • 6.6 本当の初代大統領か?
  • 7 晩年
  • 8 個人として
    • 8.1 「桜の樹」の伝説
    • 8.2 ワシントンと奴隷制
    • 8.3 ワシントンとインディアン
  • 9 脚注
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

[編集] 生い立ち

ワシントンはバージニア州ウェストモーランド郡のコロニアル・ビーチ南部にあるポープズ・クリーク・プランテーションで生まれた。彼の誕生日は1731年2月11日(ユリウス暦)1732年2月22日(グレゴリオ暦)となっているが、グレゴリオ暦の方が有名である。日付が1年以上食い違っているように見えるが、これは、当時イギリスでは3月25日が年初日とされていたためで、生年そのものは1732年である。

ワシントンの一家はバージニア州で黒人奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。ワシントン家はバージニアでの指導層とまでは行かず、中流の郷士であった。彼の両親、オーガスティン・ワシントン(1693年 - 1743年4月12日)とその2番目の妻メアリー・ボール(1708年 - 1789年8月25日)は、イギリス出の家柄であった。オーガスティンは1657年にイングランドのサルグレイブからバージニアに渡って来たジョン・ワシントンの孫であった。先妻ジェーン(1729年没)との間に4人の子をもうけたが2人だけが成長し、後妻のメアリーとの間には6人の子が生まれ、5人が成長した。

ワシントンは幼年期の多くをスタッフォード郡のフレデリックスバーグに近いフェリー・ファームで過ごした。父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の長兄ローレンス(1718年-1752年)が父親代わりを務めた。ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスもワシントンの人格形成に影響を与えた。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園をマウントバーノンと名付けた。ワシントンはフェリー・ファームを相続した。

青年期は測量を学び、生まれ育ったバージニアの地形について知悉(ちしつ)するようになった[1]

1748年には農園主としての経歴を積み始め、またブルーリッジ山脈の西側の土地の測量にも請われて参加した。1749年、フェアファックスの後押しもあって、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として始めて公的な役職に就いた[2]。 この仕事で得た収入でシェナンドー渓谷に新しく農園を購入したが、これがその後のバージニア西部における資産拡張の始まりとなった。この頃ローレンスの影響で西部の土地を開発することを目的として作られたオハイオ会社に興味を持った。また、バージニアの副総督(実質的な統括者)ロバート・ディンウィディとも知り合った。ワシントンは身長が6フィート2インチ (188 cm)あり(推定、資料により異なる)、よく目立った。

1751年に結核を患っていたローレンスが転地療養のためにバルバドスに渡った時、ワシントンも同行した。天然痘にかかるが無事に回復した。病気のあとは顔にあばたとして残ったが、これで免疫となったことはその生涯で経験した環境を考えれば重要なことであった。1752年2月4日にフリーメイソンに加わった。同年7月にローレンスが死去した。彼は最初、ローレンスのマウントバーノンの農園を借り、最終的には相続した。ローレンスはバージニアの民兵隊長を務めており、その死後は4つの地区に分けてそれぞれ隊長が配されることになった。ワシントンはディンウィディの指名でその1つを継承し、少佐となった [3]。地区隊長としてのワシントンは割り当てられた宿舎に入り、民兵の訓練を行った[4]

1753年12月、ディンウィディはフランスの軍事力やその考え方を探る目的でワシントンを、現在のペンシルベニア州ウォーターフォードにあったル・ビューフ砦に派遣し、伝言を伝えさせた。この伝言はフランスによるオハイオでの開発を止めるように要求したものであり、当然のように無視され、その後アメリカにおける2強国の対立が世界的な紛争に繋がる引き金ともなった。この時作成したワシントンの報告書は大西洋の両側で読まれることになった。

[編集] フレンチ・インディアン戦争

1772年にチャールズ・ウィルソン・ピールによって描かれた最も初期のワシントンのポートレート。バージニア連隊の大佐の制服を着ている。

1754年にワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命され、バージニア西部の一連の砦を構築した。彼はバージニア州知事によってオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。フランス軍は要求を拒絶し、ワシントンはフランス軍偵察部隊を攻撃、指揮官のジュモンヴィルを含む10人を殺害した。フランス軍の報復を予想したワシントンは小さな砦(ネセシティ砦)を構築した。しかしながらそれは無意味だった。ワシントンの部隊はフランス軍に数で圧倒され、低地に作られた砦は激しい降雨により氾濫に見舞われた。結局彼は降伏せざるを得ず、フランス軍とバージニアへの安全な帰還を交渉した。降伏の条件にはジュモンビル・グレンの戦いでフランスの斥候と指揮官を暗殺したという声明が含まれていた。フランス� ��から解放されバージニアに戻ったワシントンは降格されるよりも辞任の道を選んだ。しかしこの敗戦が結果的にフレンチ・インディアン戦争の開戦を招くこととなる。

1755年、ワシントンはフレンチ・インディアン戦争でオハイオ領土を取り戻すことを試みたイギリス軍のブラドック遠征に従軍した。西ペンシルベニアでのモノンガヒーラの戦いの間に、配下の3頭の馬が銃撃を受け、4発の弾丸が彼のコートを貫通した。この戦いで敗北を喫したものの、彼は退却の際に砲火の下の冷静さを示した。戦闘中のワシントンの役割はその後の議論の対象となってきたが、伝記作者のジョセフ・エリスは、ワシントンが戦場を馬で乗り回し、イギリス軍やバージニア民兵の残存兵を掻き集めて撤退させたと主張している[5]。 同年秋、バージニアの山岳地で難しい辺境の任務を与えられた。1758年、ジョン・フォーブスの遠征隊に参加し、この時はデュケイン砦のフランス軍を排除することに成功した。この年遅くワシントンは軍隊の現役から退き、その後の16年間はバージニアの農園主および政治家として過ごした[6]

2012年5月5日土曜日

メルクマニュアル家庭版, シラミ寄生症 210 章 寄生虫による皮膚感染症


シラミ寄生症とは、小さく翅[はね]のない昆虫のシラミが皮膚に寄生することです。

シラミはかろうじて見える程度の翅のない小さな昆虫で、物理的接触や共有する衣類などを通じて、人から人に簡単にうつります。人間に寄生するシラミは3種類おり、それぞれ寄生する場所が異なります。

アタマジラミは頭髪に寄生します。このシラミは個人的な接触や、頭に使う衣類や道具、つまりくし、ヘアブラシ、帽子などを共有することでうつります。アタマジラミは学童期の子供に広くみられます。また、黒人にはめったにみられません。

コロモジラミは衛生状態が悪く、狭い場所に大勢の人が暮らしている場合に多くみられます。このシラミは布製品の縫い目に住んでいて皮膚へと移ってきます。

2012年5月3日木曜日

ピアニスト・一世 オフィシャルサイト  一世を応援する一世ファンのために・・・ || 歴史的名ピアニスト:ブラームス ||



総合資料室
歴史的名ピアニスト



ブラームス,ヨハネス
Brahms,Johannes
1833年5月7日・独/ハンブルク〜1897年4月3日・オーストリア/ウィーン



父親ヤーコプは当地の楽団のコントラバス奏者。

1839年(6歳)父親ヤーコプから音楽の手ほどきを受ける。

1840年(7歳)父親の手引きにより、ハンブルク市内のピアノ教師コッセル(O.Cossel 1813年〜1865年)に師事。正式なピアノ教育はおそらくこの時点がスタートだと推測される。

1843年(10歳)父親ヤーコプ主催の演奏会にて初の公開演奏。

同年、コッセルの紹介により、コッセルの師でピアニスト兼作曲家のマルクスゼン(Marxsen,Edward 1806年〜1887年)にピアノと作曲法を師事。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの作品研究・分析、リズム感の訓練、ピアノ演奏の徹底した基礎訓練などをマルクスゼンから受ける。ブラームスの生涯にわたる伝統的ドイツ様式の作風は、この頃の基礎教育で形成された。

1845年(12歳)マルクスゼンによる指導に作曲理論が加わる。この年から作曲作品が生まれているが、後年ブラームス本人が「未熟作品」として破棄した為、19歳以前の作品・楽譜は現存していない。

1846年(13歳)
レストランや酒場、ダンスホール等のピアノ奏者を務め、家計を助ける。

1847年(14歳)
ヴィンゼンにて初の指揮を経験。当地の男声合唱団の合唱指導だった。丁寧なアドバイスに加えて真面目 かつ礼儀正しいブラームスに好感が集まり、翌年夏の合唱指導も依頼される。

1848年(15歳)3月、ハンブルクのフィルハーモニー協会の公演でヨアヒム(Joachim,Joseph 1831年〜1907年)のヴァイオリンを聴く。生涯親交を持つヨアヒムをこのコンサートで知る。(この時点でヨアヒムと接触はない)

同年夏、ヴィンゼンで合唱指導。

同年9月21日、ハンブルクに於いて初のリサイタルを開催。

1849年(16歳)4月14日、2回目のリサイタルを開催。